「人間は考える葦である。」詳細は省略するとして、少し違うやも
しれないが、前提として人というものは考えるものであり、
考えるから故に人間なのであろう。 
 先日電車に乗った時。乗降口上部に設置されているモニターを 
見ていると、現在位置、次の駅、路線図、等々乗車に関する情報が
次々と表示されていた。それだけでも充分なのに停車駅に到着する
直前には「こちら側のドアが開きます。」の文字と共に扉上部にある
LEDランプが点灯する有様である。外国人言う日本流のおもてなし
至れり尽せりであろうか。しかし、こうも言う「そこまでしなくても」。 
 そのようなシステムが導入される以前なら、外の風景や駅の看板 
路線図等を見て現在位置を確認していたのである。それがモニターを 
ただ眺めているだけで全てが解るのである。自分で考えるという
行為をあまり必要としなくなっている。それは電車のみに限る事では
なくそれが世の中の流れと感じずにはいられない。
 さて考えることをあまりしなくなった人をどうなるのか。使わない 
能力は生物の必然として退化の途を辿るのだろうか。冒頭の言葉から
すれば考える事をしなくなった人、もしくは自分は単なる葦と
なってしまうのだろうか。 

                                   
                                    工房 永田